龍馬の生き方に学ぶ 2 「新渡戸稲造と宮澤賢治」
4 月 17th, 2010 | By admin | Category: コラム「北ニケンクワヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」などは、あらゆる人への愛を大きく包み、彼の理想郷「イーハートーブ」は彼の永遠の原風景でもある「地球と宇宙」に広がっていく
「北ニケンクワヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」などは、あらゆる人への愛を大きく包み、彼の理想郷「イーハートーブ」は彼の永遠の原風景でもある「地球と宇宙」に広がっていく
私の龍馬研究入門は、これまでの歴史の教訓から、本当の、そして、真っ当な「にんげんらしい生き方とは何か」の示唆を与えてくれそうな、そんな特別の期待から、龍馬の志、龍馬の人間像を学ぼうと思ったのである
慶応三年(一八六七)十月十四日、徳川慶喜はついに政権を朝廷に返還した。
知らせを聞いた龍馬は、涙をボロボロ流しながら、
「慶喜公の今日の心中を深くお察しします。私は誓って慶喜公のために一命をささげましょう」
といった。
「宗光は、おれが神戸の塾で育てた腕白ものであった。あれが、おれの塾へ来た原因は、紀州の殿様から、『わが藩には、いのしし武者の暴れ者がたくさんいるから…
宗光が江戸に到着した安政五年(一八五八)、幕府は将軍継嗣問題で揺れていた。大老に就任した井伊直弼は、紀州藩主の徳川慶福を強引に将軍に推し孝明天皇の裁可を得た。のちに慶福は名を家茂と改める。
睦奥宗光といえば、明治期のカミソリ大臣としての印象が強い。しかし幕末期の行動は、明治以降ほど歴史の表舞台で足跡は残してはいないものの、坂本龍馬と行動を共にし、海援隊では龍馬の信望がすこぶる厚かった。勝海舟と龍馬が師弟関係にあったように、龍馬と宗光も同じような関係にあった。
このころ、藩士が熊本を訪れて横井小楠と会い、その識見に驚嘆した。嘉永4年(1856)6月に小楠は福井を訪れ、藩士たちはその講義を熱心に聴いた。
筆者の郷里は福井県である。北海道龍馬会入会を機に、越前福井藩の松平春嶽と坂本龍馬のかかわりについて紹介したい。