龍馬と陸奥宗光 4
5 月 21st, 2009 | By admin | Category: コラム
慶応三年(一八六七)十月十四日、徳川慶喜はついに政権を朝廷に返還した。
知らせを聞いた龍馬は、涙をボロボロ流しながら、
「慶喜公の今日の心中を深くお察しします。私は誓って慶喜公のために一命をささげましょう」
といった。
十一月十五日、ついに運命の日がやってきた。この日龍馬は近江(おうみ)屋で中岡慎太郎と相談ごとをしていた。
夜になり見知らぬ男たちがやってきて、その中の十津川郷士と名乗る男が、龍馬たちに襲いかかり龍馬は間もなく絶命した。享年三十三。中岡も二日後に亡くなった。享年三十。
犯人は、新撰組説、見廻組佐々木只三郎説など諸説あるが、宗光は、紀州藩の公用人で三浦休太郎(安)が伊呂波丸事件の賠償問題を恨みに思い、新撰組に龍馬の暗殺をそそのかした首謀者であるという風評を耳にする。
十二月七日宗光を含む海援隊と陸援隊の有志十六人ほどが、新撰組に護られ京都天満屋に潜む、三浦休太郎を襲撃するという挙にでるが失敗し、三浦は負傷しただけで生命には別状なく、宗光は追ってを逃れ薩摩藩屋敷に匿られた。
龍馬の死後、海援隊は、慶応四年(一八六八)閏四月解散するが、後藤象二郎が海援隊の意思を継ぎ土佐藩・土佐商会の岩崎弥太郎に継承、九十九商会を経て郵便汽船三菱会社(後の三菱財閥、日本郵船)へと発展する。
維新後、宗光は条約改正や外務大臣として日本の外交に尽力する。だが、政界での活躍道半ばで激務と持病の肺患を悪化させ、明治三十年(一八九七)八月二十四日、東京西ヶ原の自邸で息をひきとった。享年五十四であった。
宗光の一生で、心から宗光に親身になり才能を開花させようとしたのは、龍馬であったのではないだろうか。龍馬の度量の大きさが、宗光の能力を受容出来たのであり、凡手にはそれが不可能なくらい、宗光は角があり折合いの悪い人物だったのだろう。
きっと、少年時代に経験した紀州藩の仕打ちに心が屈折し、人を信じられなかったのではないだろうか。
龍馬は宗光を評して、
「両刀を脱して喰えるのは汝と我のみ」
といい、宗光もまた、
「龍馬あらば、今の薩長人などは青菜に塩だね。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言へり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のうに思はれき」(千頭清臣『坂本龍馬』)
と語り、二人の絆の深さをよく表している。
また晩年、龍馬は「自然(じねん)堂」という言葉を好んで使った。この言葉はお龍とともに身を寄せていた下関の伊藤助太夫邸に掲出されたていた庵号である。
亡くなる二日前の絶筆も宗光宛である。
一、さしあげんと申した脇差は、まだ大阪の(とぎ師の)使がかへり申さざる故、わかり申されず。
一、おもたせの短刀は、さしあげんと申した。私のよりは余程よろしく候。但し中心(なかご)の銘および形。是はまさしくたしかなるものなり。然るに大阪より刀とぎかへり候時は、見せ申し候。
一、 小弟の長脇ざし御らん成されたしとのこと、ごらんに入れ候。
十三日 謹言
「陸奥老台、自然堂拝」
とあり、龍馬の身に凶刃迫る緊迫したなか、呑気にたわいのない刀の話に終始し、宗光を如何に信頼していたかが分かる。
龍馬を偲んで、昭和三年(一九二八)地元の有志が土佐・桂浜に龍馬の銅像を建立した。龍馬の視線は遥か太平洋を越え、アメリカ・カルフォルニアを見据えている。
宗光の銅像も和歌山城下の公園に立ち、郷土を見護っている。
また、龍馬の墓は京都東山・霊山(りょうぜん)護国神社にあり、同志たちと永遠の眠りについている。
一方、宗光の墓は鎌倉・寿福寺にある。宗光はこの地で龍馬と世界の海援隊を夢見ていた往時を懐かしく偲んでいるでは。墓前に立つとふと若き宗光の想いが伝わってくるような思いがした。

