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龍馬の生き方に学ぶ 2 「新渡戸稲造と宮澤賢治」

4 月 17th, 2010 | By admin | Category: コラム

新渡戸稲造に見る龍馬的人間

最初に「新渡戸稲造」であるが、彼は文久2年(1862)に現在の岩手県盛岡市に盛岡藩士の家筋に生まれている。札幌農学校に入学し、同期には内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)らがいた。
在学中にキリスト教の洗礼を受け、後、東京大学に進み、「願わくは、われ、太平洋の橋とならん」との思いから、私費でアメリカに留学する。
帰国して札幌農学校の助教授に任命されるが、留学時代にクエーカー派の会員となり、同じ派のメリー・エルキントンを妻にするが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニアで転地療養する。そこで『武士道』を英文で書き上げ、それが各国語にも翻訳され、ベストセラーになった。
その後、第一高等学校長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長などを歴任するが、大正9年(1920)の国際連盟設立に際し、事務局次長に選ばれ、世界平和に貢献する。
退いた後、昭和8年(1933)にカナダ・バンフで開催の第5回太平洋会議修了後、当時国際港だったビクトリアで客死する。享年72。
新渡戸稲造の志である「太平洋の架け橋」を読み取ると、その「国を超えて世界平和を希求し続ける夢」は、まさに龍馬的人間そのものではなかろうか。
新渡戸の碑は、盛岡城址(南部藩の居城・不来方城)の二の丸のそばに、啄木碑から30メートルほど離れたところにある。

次に挙げたいのは「宮澤賢治」である。彼は明治29年(1896)に現在の岩手県花巻市に生まれている。家業は質・古物商で、幼児期より仏教の信仰が篤い家庭で育つ。
小学校3年生の時に、担任の八木英三先生の影響で童話や民話に興味を持つ。県立盛岡中学校(現県立盛岡第一高校)、盛岡農林学校(現岩手大学農学部)、同校研究生となり、大正10年(1921)に稗貫郡立稗貫農学校(後の県立花巻農学校)の教諭となり、その傍ら、童話『どんぐりと山猫』『注文の多い料理店』『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』『オッペルと象』などを書く。
しかし大正15年(1926)3月末で花巻農学校を退職し、花巻郊外で独居生活を始める。開墾や肥料の相談、設計などの傍ら、音楽(オルガンやチェロ)の練習も始める。
昭和3年(1928)のころから体調を壊すが、執筆や園芸に熱中する。昭和6年(1931)、病臥に臥しながらも11月3日、手帳に「雨ニモマケズ」を書き留める。
昭和8年(1933)9月、法華経1千部を印刷して知人に配付するよう、父に遺言して死去する。享年38。
その「雨ニモマケズ」の深層を読み解いていくと、「欲ハナク」「決シテイカラズ」「イツモシズカニワラッテイル」、そして「アラユルコトヲ」「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」などは仏陀に重なる彼の願望である。
さらに、「北ニケンクワヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」などは、あらゆる人への愛を大きく包み、彼の理想郷「イーハートーブ」は彼の永遠の原風景でもある「地球と宇宙」に広がっていく。
これこそ龍馬が理想とした世界であり、彼こそ龍馬の思想を文章で表現した後継者に他ならないと思うのである。(つづく)

河地 良一(北海道龍馬会理事)

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